ミッキーの京王線沿線ぶらぶら日記

ひま人主婦のミッキーが、大好きな京王線沿線を足の向くまま気の向くまま、ぶらぶら歩いて見つけたこと。

国宝が眠る小さなお堂: 『染屋不動尊』

旧甲州街道を多磨霊園駅から武蔵野台駅に向かって歩いていくと、多磨霊園南参道とぶつかるところに『不動尊前』という交差点があります。
『不動尊前』というからには、近くに“不動尊”があるに違いない!
そう思って見回すと、、、あります、あります。
道の右側、交差点のすぐ横に『染屋不動尊』がありました。



“染屋不動尊の社殿”

境内も小さな、こじんまりとしたお不動様です。
急いで歩いていたら、見落としてしまったかもしれません。



“宝物殿”

左手前には、小さなお堂。
近づいて、傍らにある碑を読んでみたら、、、
『上染屋八幡神社 宝物殿』“重要文化財 金銅阿弥陀如来立像”「元弘三年(1333年)鎌倉攻めの新田義貞軍が持ってきたと云う」などと書いてあるではありませんか。
えぇーっ!? 重要文化財?
つまり、それって、『国宝』ってことぉ~!?

その手前に2つ並んだ、大きくて立派な新しい石碑の1つを見たら、、、
全くそのとおり、石碑にちゃんと『国宝299』と書いてありました!
へええ、こんな鄙びた小さな不動尊に『国宝』があるなんて、信じられない気がします。

石碑から知ったその由来は、次のようなものです。
『この阿弥陀如来像は元は上州八幡庄にあったが、元弘3年(1333年)5月、新田義貞が挙兵した際、里見の城主がこの像をもって馳せ参じ、義貞軍の守護神とされた。分倍河原の合戦で、北条の大軍を打ち破って鎌倉幕府を滅ぼし、“建武の中興”を成し遂げることができたのもこの像のお陰だと思った義貞は、関戸(聖跡桜ヶ丘付近)の堀上椿森にこの像を安置し、後に土地も寄進した。その後社殿も建てられ、南朝の守護神像として崇められた。
承応2年(1653年)に、玉川の洪水により現在の地に移された。
明治の初めにこの像は売り払われて転々としていたが、ある時、徳川家達(徳川宗家16代当主)の夢枕に立ち、「染屋に戻して」と言うので、ここに持ち帰って不動堂に安置した。
昭和2年に狛江に住む人が苦心の末見つけ出した。その後、国宝に指定され、宝庫に収められた』

ふ~ん、びっくり!
ただただ感心するばかりです。

石碑は、次のような文章で結んであります。
『この地は国府に近く、鎌倉街道の要衝にあり、甲州街道に沿い京王電鉄の駅近く、南涯の上にして富士の霊峰を朝に仰ぎ、武蔵野の月を夕に眺め、山紫水明の多摩川河畔、多磨霊園の入口に位置する所。
この地を過ぎてこの碑を見る者、願わくば感発する所あれ』

なかなかキレイな文章ですね。
でも、宝物殿はしっかりと扉を閉ざして、阿弥陀如来のお姿を見ることはできません。
石碑にある絵から想像するしかないのですが、高さは48.8cmだそうですから、小さな阿弥陀様です。



“石碑上の阿弥陀如来像の絵”

あれっ?
『不動尊』というのですから、社殿に祀られている本尊は、あくまで不動明王なのでしょうねぇ。
その辺のところは、よくわかりませんが、、、
今度行ったら、そこを確かめてこようと思います。

もう1つの石碑には、
『“上染屋”の集落は多摩川のほとりにあったが、度重なる洪水を避けてこの辺りに移ってきた。
元は、“染屋”という集落だったのが、“上染屋”と“下染屋”に分かれた。
“染屋”という地名は、「調布(てづくりぬの)を染めた所」とも「鎌倉時代に染殿のあった所」とも言われており、南北朝時代の古い資料にも出てくる』
などと、“上染屋”について書いてありました。

ところで、宝物殿は“染屋不動尊宝物殿”ではなくて“上染屋八幡神社宝物殿”となっています。なぜなのでしょう?
地図を見ると、近くの浅間山通りに“上染屋八幡神社”があります。この宝物殿と関係があるのでしょうか?
謎は深まるばかりです。
そのうち“上染屋八幡神社”にも行ってみようと思っています。


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